──どこか懐かしい匂いが鼻先をくすぐり、ピクッと無意識に身体が動いた。あぁ、ちょっと休憩のつもりで目を閉じて、そのまま寝ちゃったのか…
なんだか温かいし、ふわふわするし、気持ちよすぎる。このまま、もうひと眠りしちゃいたいなぁ…
……
「あれ、せっかく起きたのにまた寝ちゃうの?今夜は冷えるから、あまり長く寝てると風邪ひいちゃうよ」
誰もいないはずの食堂から聞こえた声で、甘やかなまどろみから醒めた。机に突っ伏したまま、声のした方──左側へ顔だけを向けると、わたしと同じ体制でこちらを見る諸伏くんが隣の席に座っていた。
「も、諸伏くん……!?」
「おはよう。目ぇ覚めた?」
「おはよ……なんで諸伏くんがおるん?」
「散歩に行こうと思って部屋を出たら、食堂の灯りが点いてるのに気がついて。気になって来てみたら、君がいたからさ。勉強してたの?」
「うん、次の試験の勉強してたんだけど、途中で寝ちゃったみたいで……」
徐々に意識がハッキリしてくる。上体を起こそうとしたところで、柔らかいブランケットが肩にかかっていることに気づいた。春の風をまとったようなそのネイビーブルーの布は、わたしには見覚えのないものだった。
「これ、諸伏くんの?」
「うん。余計なお世話かなと思ったんだけど、なんだか寒そうだったからさ」
「ありがとう……すごく温かいよ」
「よかった。じゃあさ、もう少し温まらない?」
少し骨ばった深爪がちの大きな手が、わたしの前にマグを差し出す。夢うつつで鼻腔が捉えた懐かしい匂いの正体は、このホットココアだったようだ。
「えっ……、いいの?これ、諸伏くんが淹れてくれたの?」
「うん、身体温まるかなと思って。それに、オレも飲みたかったし」
優しい……!諸伏くん、お母さんみたいだ……!
高校生の頃、遅くまで受験勉強しているとお母さんが温かい飲み物を差し入れてくれたことを思い出した。
「甘いの、苦手じゃない?」
「うん、大好きだよ!ありがとう」
甘くても辛くても、美味しいものならなんだって大好きだ。食の好き嫌いがないことは、わたしの密かな自慢である。
そう心の中で得意気にしていると、諸伏くんがこちらを見たまま固まっていた。しまった、ドヤ顔になっていただろうか。
「……諸伏くん?」
「あぁ、ごめんね。ちょっとぼんやりしてた。甘いの好きならよかったよ。オレも……、オレも、好き、かも」
「ふふ、好き「かも」なんだ。じゃあ、冷めないうちに……、いただきます」
甘いココアは諸伏くんのイメージにぴったりだなぁ、なんて思いながら、アイボリーのマグに唇を寄せてふぅっと冷ます。薄い膜が剥がれ、立ちのぼる白い湯気でまつ毛の先端が微かに湿りを帯びた。
「おいしい……」
マグを持つ両手が、心地よい熱で満たされる。ほのかな甘さと温かさが、舌先から喉へ、そしておなかの奥へとゆっくり落ちていく。目覚めたばかりの冷えきった内蔵に、じんわり体温が戻ってきた。
諸伏くんも充分に温まったのだろう、耳を赤く染めて微笑んでいる。
優しいココアが身体じゅうに染み渡り、心がふわっと軽くなった気がした。
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