「前に立ってるあの男、ちょっと気をつけたほうがいいかも。さっきから様子がおかしい」
「やっぱりそうだよね。なんか変……」
そのとき、パァン!と大きな音が鳴り響き、火薬の匂いが立ち込めた。乗客の視線が一斉にバス前方へ向く。件の男が拳銃を持って叫んだ。
「このバスはジャックした!運転手、そのまましばらく走ってろ。バス停では止まるな。騒いだり逃げようとしたりした奴は即座に撃つ!」
「きゃあぁぁぁ!!」
後ろの席に座っている女性が悲鳴を上げた。
「おい女ァ!騒ぐなって言っただろ!撃つぞ!」
男は天井に向けて発砲したが、天井に弾痕は無い。銃の色がゴールドだし、あれは発火式モデルガンだろう。先ほどの音は、ただの火薬に過ぎない。諸伏くんと目を合わせて頷き合う。
「別の危険物を持っている可能性もあるから慎重にいこう。オレが犯人と話してみる」
「了解。通報と乗客のフォローするね」
諸伏くんが立ち上がり、両手を挙げて反撃の意思がないことを示しながらゆっくり犯人に近づく。
「おい、なんだテメェ!」
犯人が諸伏くんに銃を向ける。もちろんモデルガンだと分かっているので、動じることはない。
「あ、オレ諸伏景光っていいます……」
「ふざけてんのか!名前なんか聞いてねえよ!何をするつもりだって聞いてるんだ」
諸伏くんが犯人の気を引いてくれている間に、今日は寮にいると言っていた玲奈にスマホでメッセージを送る。
[乗ってるバスがジャックされた 教官に伝えて 鷹52系統 いまニ鷹小学校前]
玲奈お願い、早く気づいて……!
後ろを振り返ると、先ほど悲鳴を上げた女性は身体をガタガタ震わせていた。何が起きたのかと唖然としていている人もいる。わたしがしっかりしないと。目をつぶって深呼吸し、肚に力を入れる。
「みなさん落ち着いて。今は静かにしていましょう」
そのとき、メッセージアプリに[既読]の文字が表示された。良かった……!
犯人に見えないようにこっそり[警察に通報済み]と書いたスマホのメモ画面を乗客に見せると、なんとか落ち着きを取り戻してくれたようだ。
それと並行して、前方では諸伏くんが犯人と対峙している。
「あなたの言うとおり、騒いだり逃げたりしません。ただ、このバスジャックの目的を知りたくて」
「目的?──いいだろう教えてやる。このバスもろとも、クソみてえなこの世界から飛び立つためさ。お前らを道連れに、このまま地獄の果てまでランデヴーだ!」
犯人がボストンバッグのファスナーを開けると、時限爆弾が姿を現した。タイマーの残り時間が30分からカウントダウンを始めているのを見て、心臓がヒュッとなる。後部座席からも「うそっ……!」「あれって……!」というような話し声が小さく聞こえる。
爆弾も銃と同じようにダミーなのだろうか……いや、今の段階では分からない。下手に動くのは危険だ。考えあぐねていると、犯人がポケットからスイッチのようなものを取り出した。
「余計なマネするんじゃねえぞ。このスイッチを押したら、時間が来る前にその場で全員ドカンだ」
犯人は、左手に持ったモデルガンを運転手に向け、右手でスイッチを握りしめている。諸伏くんも、爆弾をどう処理しようか迷っているようだ。情報を引き出そうと、さらなる質問をした。
「なるほど……あなたの目的はわかりました。でも、何故このバスをジャックしたんですか?」
確かにそうだ。バスジャックって、高速バスとか長距離のバスで行われることが多いのに。何か特別な理由があるのだろうか。犯人は奥歯を噛み締めながら話し始めた。
「──俺は、毎日このバスに乗って通勤していたんだ。そしてある日、定期を拾ったことがきっかけで
どうやら事情があるようだ。乗客全員が固唾を飲んで、犯人と諸伏くんのやり取りを見ていた。
「……1年前、何があったんですか?」
「公佳は働きながら資格を取って、去年やっと念願のソムリエとして働き始めた。忙しかったけれど「やりがいがある」って頑張ってたよ。でも、土砂降りだったあの日──公佳は仕事の疲れからか、突然フラついて道路に飛び出したらしい。強い雨風で視界が悪く、回送中だったこのバスに轢かれて──」
犯人の顔に悲痛の色が見える。どうやら嘘をついている様子はない。
「それが去年の今日のことだ。俺はあの日からずっと決めていた。公佳がいない世界で生きてる意味なんてない……だから最後にこの忌まわしいバスを吹き飛ばして、公佳のところへ行くんだ!」
最初から逃げる気がないから、乗客の携帯を取り上げないのか。この様子だと、爆弾の方は本物っぽい。もし時限装置が作動する前に警察が突入してきたら、その場でスイッチを押すつもりなのだろう。大切な人を亡くした痛みはわかるけれど……誰を巻き込んでも構わないと自暴自棄になってしまっている。全員助かるためには、どうすればいい……?そう考えていると、玲奈からメッセージが届いた。
[伝えたよ。まだ携帯生きてたら逐一情報送るよう教官が言ってる。ちなつ、必ず生きて帰ってきてね]
絶対にこの状況を乗り越えなければ。唇を固く結んで返信した。
[犯人は20代〜30代の男1名 時限式爆弾を所持、残り20分 バスごと自爆目的 遠隔スイッチも所持しているため突入は危険]
[玲奈とまた飲みに行きたいから絶対に帰るよ]
このバスは駅前や住宅街など人の多い場所をずっと走る路線だ。仮に諸伏くんと2人で犯人を取り押さえて全員避難させたとしても、爆発したら周辺住民に危害が及ぶ可能性が高い。何とかしてルートを外れ、バスを安全な場所に移動させなければ。でも、どうやって……?
そのとき、諸伏くんが話し始めた。
「……オレも両親が事件に巻き込まれて亡くなっているので、大切な人を突然喪った痛みは分かります。今でも、あの事件の犯人のことは許せない」
事情を知らない人からしても出まかせとは思えない諸伏くんの言葉と瞳の強さに、犯人の表情が少し揺らいだ。バスジャックは断じて許される行為ではないけれど、この男も根っからの悪人ではないのだろう。
「ところで……地獄の果てまでランデヴーする仲になったんですから、あなたのお名前も教えてもらえると嬉しいです」
「……まぁ、それもそうか。辻井だ。
すごい諸伏くん……犯人の名前を聞き出した。また玲奈にメッセージを送る。
[犯人の氏名はツジイヒロユキ]
「ありがとうございます、辻井さん。オレちょっと気になったことがあるんですけど」
「何だよ」
「回送中のバスとの事故ということは、公佳さんの事故現場はこの路線のルートから外れてるんじゃないですか?」
「あぁ、そうだよ」
「事故現場はどこなんですか?」
「……
「近いじゃないですか。せっかくですから、そこへ向かいましょうよ。その方が、公佳さんも喜んでくれるんじゃないですか」
「あ、あぁ……」
淡々としていて、助けを請わないどころか辻井に協力的な諸伏くんに、乗客も辻井自身も気圧されている。先ほどまでの優しくて穏やかな雰囲気とはまるで違うひやりとした空気で、諸伏くんは完全にこの場を掌握していた。明鏡止水のごとく澄み切った美しさと、深海のような底知れなさを併せ持っているような……わたしはそんな諸伏くんを尊敬すると同時に、少し恐ろしさも感じていた。
「運転手さん、新
「えっ……。は、はい……」
そのルートで事故現場へ向かうには、いったん
なぜ諸伏くんはわざわざ遠回りのルートを──?諸伏くんはチラリとこちらを見た後、辻井から目を離さず後ろ手でジェスチャーを送ってきた。ピースサインを閉じたような形を作り、人差し指と中指で何かを挟んで掬い上げるような動作をしている。
何だろうあの形。拳銃?──いや違う、お箸?はし……そうか、橋だ!是又橋から堤無津川へ爆弾を落とせば、被害を食い止められる。即座に玲奈へメッセージを送った。
[残り15分 爆弾は是又橋から堤無津川に落とす 橋を封鎖して]
駅前に交番があるから、封鎖は今からでもギリギリ間に合うかもしれない。
「……すみません辻井さん、気分が悪いので、そっちの『
わたしが急に話しかけたからか辻井は一瞬驚いたような表情を見せたが、特段気に留めてはいないようだ。
「フン、勝手にしろ」
諸伏くんが一瞬こちらを見て、ほんの少しだけ口角を緩めた。わたしがジェスチャーのメッセージを正しく受け取ったことは、ちゃんと伝わったみたいだ。
そそくさと爆弾の正面のベンチシートへ移動しながら、後ろ手で乗客にスマホのメモ画面を見せた。
[川に爆弾を投げる バスが止まってもその場から動かないで]
ベンチシートの端に座って後部座席を見ると、乗客たちはこちらを見て息を呑むように頷いていた。
残り10分。
張り詰めた空気のまま、バスは堤無津川のほとりへ向かって加速していく。
今、最大の問題は、辻井が持っている爆破スイッチだ。あれさえ無ければ、2人がかりで制圧できるのだけれど。
「公佳、もうすぐ行くよ……待っててくれ……」
もう辻井は半分違う世界に行ってしまっている。けれどスイッチはしっかりと握りしめているから
あっ!これ……前に実家から送られてきた防犯用ライトだ。ヘッドライトの何倍もの明るさで、昼でも目くらましになるってやつ。使う機会がなかったから忘れてた。これを奴に当てて、諸伏くんが拘束してくれれば……わたしが爆弾を外に持ち出せる。
バスは緩やかなカーブを曲がり、右手に東都競馬場の灯りが見えてきた。
「うわっ、競馬場の『ライト』が『眩しい』。目が……」
辻井に見えないように身体で隠した右手で、諸伏くんの方に向かって防犯用ライトをくるくると回す。
「うるせぇなぁ、さっきから何なんだよテメェ……いいかげん黙ってろ」
姿勢を直すフリをして諸伏くんの方を見ると、彼は目を見て小さく頷いてくれた。やりたいことの意思は伝わったようだ。
残り5分。
バスは新小針井街道から
「おい、どういう事だ!駅過ぎてんじゃねぇか!」
「道路の構造上、堤無津川を渡って迂回しないと駅前に出れないんです」
「ったく、しゃーねえなぁ……もう時間がねえんだ、急いでくれよ」
駅を過ぎて1分ほどで、バスは是又橋に差し掛かった。封鎖が間に合ったようで、他の車は見当たらない。橋の中央あたりで、辻井に何か話しかけてライトを当てよう。一発勝負だ、失敗は許されない……。緊張で喉が乾き、手に汗が滲んでくる。服の裾で手汗を拭い、思わずゴクリと息を呑んだ。
残り3分。
そのとき、諸伏くんがこちらへ目線を送ってから辻井に話しかけた。
「あの……そっちから乾電池が転がってきたんですが。そのリモコンのじゃないですか」
「何っ!?」
辻井がリモコンの底蓋を確認しようとして無防備な体制になった。
「今だ!」
諸伏くんの声でわたしは立ち上がり、辻井の顔をライトで照らした。
「ぐあああぁぁぁ!眩しくて目を開けていられない!!」
辻井が怯み、思わず両手を顔の前で交差させて目を庇った。即座に諸伏くんがスイッチを奪い、体をしなやかに捻る。次の瞬間『バシュッ』と空気を裂くような音がして、鮮やかな蹴りが辻井の肩口に炸裂した。
「ブレーキ!ドアを開けて!」
残り1分。
バスが急停車し、後方のドアが空いた。爆弾入りボストンバッグを持って外へ飛び出す。急げ!!早くこれを水の中に沈めないと……わたしも周りの人も粉々に吹っ飛んじゃう!!死と隣り合わせの恐怖を抱えながら必死で走る。
残り30秒。
歩道へのガードレールを飛び越えると、防護服を着た爆処らしき人たちが走ってきた。
「君!それ爆弾じゃないのか?渡しなさい!」
残り15秒。
そんなの無理!もう間に合わない!説明してる暇もない!
残り10秒。
欄干から身体を乗り出し、勢いをつけてできるだけ川の中央へ向かってバッグをぶん投げる。
残り5秒、
「おい!何やってるんだ!!」
4、
え、見てわかんない?
3、
「ばかやろう!」とかワーワー言ってる大人たちの怒号が聞こえる。
2、
「衝撃に備えて伏せろー!!」
1、
両耳を抑えて四つん這いになり、おでこを地面に付けた。
ドゴォーン!!という轟音とともに水柱が上がり、雨のようにサーッと飛沫が降ってきた。
ま、間に合ったぁ……本気で死ぬかと思った……
はぁはぁと肩で息をしながら、ゆっくり頭を上げて立ち上がる。──そうだ、犯人は!?諸伏くんは!?運転手と乗客は!?
バスの方を振り返ると、諸伏くんと運転手に拘束された辻井が前方のドアから降りてくるところだった。
「何でだよ!公佳のところに行かせてくれよ……!」
「だめですよ。こんなことして命を断っても、きっと公佳さんは会ってくれないから……きちんと罪を償って、自分の人生を全うしてください」
「……諸伏だっけ、お前も両親の事件の犯人許せねぇって言ってただろ。お前は俺の気持ち分かってくれてるんじゃなかったのかよ。結局俺のことハメやがって」
「……分かりますよ。分かるからこそ、止めたかったんです」
「はぁ?どういう意味だよ」
「両親の事件の犯人は許せないし、割り切れてもいないけど……でも、オレいつか向こうに行くとき胸を張って両親に会いたいから、復讐はしたくないんです。辻井さんにも、いつか笑顔で公佳さんと会ってほしいって思ったから」
普段は優しくて穏やかな面が目立つけれど、やっぱり諸伏くんって芯が強い人なんだなと改めて感じる。犯人も、諸伏くんの想いに何か感じるところがあったようだ。
「公佳に、笑顔で……」
「そうです。公佳さんに恥じない自分で会いに行きましょう。それまできっと、公佳さんが見守っててくれますよ」
そう言って諸伏くんが犯人にニコッと微笑む。
「何なんだよお前……良い奴かよ」
犯人も諸伏くんの思いに心が動いたのか、発砲したときとは別人のように柔らかい表情になっている。もしかしたら諸伏くんは、天然の人たらしなのかもしれない……
「いえ、ただの警察官です。まだ見習いですけど」
「警察官かよ。どうりで蹴りが痛えわけだ。完全に騙されたわ」
「……辻井さん、ちゃんと罪の重さを受け止めてくださいね。これだけのお客さんと運転手さんを巻き込むところだったんですから。自分と同じような悲しい思いする人を、これ以上増やしちゃだめですよ……」
「……チッ、最後はお説教かよ、クソガキが」
警察官が2人駆けつけると、辻井の両手に手錠がかけられた。抵抗することもなく無事に引き渡され、パトカーへと向かって歩いていく。辻井が途中でピタリと立ち止まり、振り返った。
「──諸伏、止めてくれてありがとな」
沈みかけた夕陽が照らした辻井の表情は、憑き物が落ちたように清々しかった。
*
乗客と運転手にも、幸い怪我はなかったようだ。念のため検査をするとのことで、病院へ向かっていった。乗客たちには多少の疲れは見えたものの、声をかけたら笑顔で応えてくれたし、おそらく大丈夫だろう。
救急車を見送っていると、犯人を引き渡した諸伏くんが「百瀬さん!」と駆け寄ってきた。
「怪我とかしてない?」
「うん、大丈夫。諸伏くんは?」
「よかった。オレも問題ないよ。爆弾の処理、完全に任せちゃったね。本当にありがとう」
安堵と疲れが入り混じったような、落ち着いた雰囲気で諸伏くんが静かに微笑んだ。
「いや、わたしじゃ犯人を取り押さえられたかどうか。諸伏くんずっと冷静ですごかったし、ジェスチャーでサインくれたり、回し蹴りも、すご……」
突然、身体の力がふにゃっと抜けてふらついた。
「百瀬さん!?」
そのままへたり込みそうになるのを、諸伏くんが咄嗟に支えてくれた。
「あはは、なんか安心したら力抜けちゃったみたい……ありがとう」
諸伏くんの両腕に捕まって、なんとか体勢を立て直す。
「本当に大変だったもんね。お疲れさま」
労いの言葉と温かい眼差しに、固くなっていた心がゆるゆるとほどけていく。思わず涙が溢れそうになるのをグッと堪えた。わたしは警察官なんだから、こんな事で泣いてちゃいけない。
「諸伏くんも、お疲れさま。わたし達、がんばったよね」
諸伏くんの表情が少し緩み、ふわりと優しい笑顔になった。
「うん。体育祭でペアをやった甲斐あって、良いコンビネーションだったよね」
「ふふっ、そうだね。ホントに──」
日常に帰ってこれたんだ。そう実感すると同時に、先ほどまでの目まぐるしい展開を思い返して言葉が詰まってしまう。胸のつかえが取れて、じわりと温かいものが込み上げてくる。ふぅっ、と息をついて声に変えた。
「ホントに、全員無事でよかった!」
がんばって笑顔を作ったけれど、こらえきれず涙が浮かんでしまう。橋の欄干に両手を置いてつま先立ちになり、川の向こうを眺めるフリをしてごまかした。でもきっと、わたしが強がってることはバレている。
隣でふっと笑った気配がした。左側を向くと、諸伏くんはすべてを受け止めてくれるような微笑みでこちらを見ている。彼の瞳には、いつもとは少し違う穏やかさと静かな強さが宿っている気がした。
言葉の代わりに、大きな手のひらがそっと背中に触れた。大丈夫だって言ってるみたいに、励ましてくれるみたいに。伝わってくる体温で、次第と心が落ち着いてくる。やっぱり諸伏くんってお母さんみたいに優しくて安心感がある──そう思った瞬間、湿った南風が吹いた。心の奥で眠っている想いが、微かに揺らされる。
「お母さんみたい」なのかな……?
ふと湧き上がった小さな疑問は、そのまま川の流れに乗せて放つことにした。
堤無津川の彼方で山の稜線が紫紺に染まり、夜の帳が少しずつ降りていく。始まりの予感を連れて、夏はもう近くまでやって来ていた。